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ふくだ へいはちろう

福田平八郎

略歴

1892年2月28日 - 1974年3月22日(享年:78歳)

1892年 大分市に生まれる。

1910年 京都市立絵画専門学校別科入学。

1911年 京都市立美術工芸学校入学。竹内栖鳳らに師事。

1915年 京都市立絵画専門学校に再入学。

1919年 第1回帝展に「雪」を出品し初入選。

1921年 第3回帝展で「鯉」が特選となる。

1924年 帝展審査員となる。京都市立絵画専門学校助教授に就任。

1930年 「六潮会」結成に参加する。

1932年 第13回帝展に「漣」(さざなみ)を出品。

1947年 帝展芸術院会員となる。

1948年 第4回日展に「新雪」を出品。毎日美術賞受賞。

1961年 文化勲章受章。文化功労者として顕彰される。

1974年 78歳で死去。

福田 平八郎(ふくだ へいはちろう)大分県生まれの日本画家。円山四条派系の写生から次第に清新でかつ装飾的なヶ高になり、更にモノの本質を単純化した作品を生み出した。昭和36年文化勲章を受章。

幼少期

 福田平八郎は1892(明治25)年2月28根地、大分市大字駄原486番地(現・王子中町3-19)に、父・馬太郎、母・アン(安)の長男として生まれた。本名は平八郎。父・馬太郎は薬種業・中尾義三商店の大番頭を務めていた。1898(明治31)年4月、平八郎は大分県師範学校付属小学校に入学。その後校舎が新築移転した同じ頃、家も学校前に転居、父は勤めを辞めてここで学童を相手に文房具店を開いた。

 平八郎は高等小学校に進み、1906(明治39)年、同校を卒業すると大分県立大分中学校に進学した。在学中は水泳が得意だったから海軍兵学校にでもいくか、あるいは近所の外人宣教師の所へ英語を習いに行ったりしていたことから、アメリカでも行こうかなどと考えていた。しかし数学が大嫌いで、「数学のことを考えるだけで世の中が暗くなるような気がして」、とうとう中学3年のとき、これがもとで落第してしまった。

美術学校で学ぶ

 「これはいかん」と小学校の時の図画の先生が心配してくれて、幸い京都には中学2年終了で入学できる美術工芸学校があるから、そこへでもいかないかと勧めてくれた。父が文房具店をしていたこともあって絵を描くことは好きだった。高倉観涯という郷里出身の卒業生もいることから、紹介状を懐に上洛したのだった。平八郎、18歳の春である。

 「――――ところが、美術工芸学校へ行ってみると入学試験が終わっている。ここまで来て引き返すことは出来ないと、私は強引に教頭に頼んだところ、「新設の絵画専門学校に別科がある。入りたければ一週間で何か絵を描いてこい。」ということで、私は鴨川の荒神橋に立って川岸の柳に燕が飛び交うのを描いた。仕上げて学校に持って行ったら、試験にパスしたとも何とも言わないで、「明日から学校に来ていい。」ということで別科に入学したわけです――」

 京都市立絵画専門学校は、京都市立美術工芸学校の上に、文字どおり絵画(日本画)を専門に教える学校として1909(明治42)年に開校された。土田麦僊、小野竹喬、野長瀬晩花(せばんか)らは、それぞれ竹内栖鳳や谷口香嶠といった画家の塾で学びながら、この別科にも籍をおいた人である。

 平八郎は翌1911(明治44)年4月、美術工芸学校に1年から入りなおした。各学年の終わりには進級制作があり、彼は1年の写生《落椿》が銀碑のほかは、2年から4年まで金碑を重ね、卒業制作の《雨後》は同校の買い上げとなった。

文・帝展への挑戦

 絵専では在学中から文展に出品することが許されていた。平八郎も、2年生(10回文展《桃と女》)、3年生と連続して力作を描いて挑戦したが、いずれも落選の目にあった。学内では好成績を取り、友人の絵に手を貸すほど自信もあったのに、専門家の世界の難しさを知った。

 卒業のとき、美学・美術史を担当していた中井宗太郎教諭から助言を受けた。平八郎は生来の器用さから絵を描くときは、先人や先輩の技巧、筆法が眼前に浮かんで、自然に直面しなくても一通りの絵は難なくこなせた。それを注意されたのである。「自然を隔絶する幕(先輩の技法)を取り除く必要がある。自然に直面して、土田麦僊君の如く主観的に進むか、榊原紫峰君のように客観的に進むかであるが、君は自然を客観的に見つめてゆくほうがよくはないか」と言われた。彼はその言葉を「羅針盤」として進んだという。

 卒業の翌年、すなわち1919(大正8)年には、文展が改組改称されて帝展となり、その第1回展に《雪》を出して、やっと入選を果たした。《雪》はとても自然な眺めであった。2回展には《安石榴》を出して入選し、3回展では《鯉》を出して、これが特選に選ばれた。当時、平八郎は南禅寺山内の法皇寺に寓居しており、境内の池でよく見る鯉に画意を得て、徹底して写実に終始し、苦心工夫を重ねてなしたものであった。特選に加えて宮内省買い上げの栄にも浴したことから、一躍大画家に押し上げられてしまった。身内が騒がしくなって、一時は大分の郷里に避難するほどの忙しさであったが、その後の画人生は文字通り順風満帆の航行であった。

▣六潮会
 六潮会とは、東京の中外画業新報の美術部長をしていた外狩素心庵と評論家の横川毅一郎がはかって、1930(昭和5)年につくった画家の会である。「六潮一海にそそぐ」という精神のもとに、日本画の山口蓬春、中村岳陵、福田平八郎、洋画の中川紀元、牧野虎雄、木村荘八の6人を寄せたのである。1932(昭和7)年から毎年三越で展覧会を開き、1940年まで9回続けられた。当初、展覧会資金を調達するため、熱海や箱根、東京で泊まり込んで肉筆の『六兆画集』を10組つくったが、その時の集まりやその後の関わりが平八郎に様々な刺激と教訓、広い視野と知識をもたらした。京都の画家仲間だけ、日本画仲間だけではとうてい得られない大きな収穫であったと述懐している。

画壇デビュー

 翌1922(大正11)年には憧れの女性、谷口テイと結婚して下嶋に新居を待ち、この年の帝展には瑞鳥の《鶴》を出品した。翌1923(大正12)年は関東大震災のため帝展は中止されたが、1924年には展覧会委員にあげられ、《牡丹》を出品して好評を博した。つづいて《閑庭特春》(6回展)、《朝顔》(7回展)、《茄子》(8回展)、《菊》(9回展)、《南蛮黍》(10回展)、《緋鯉》(11回展)と、写実に徹した花鳥画を描いた。持ち前の技量と精緻な観察は、見事に自然の美を活写して注目された。写生を重んずる京都画壇はここに有力な画人を加えて、その陣容をいっそう整える所になる。

《漣(さざなみ)》の成功

 1932(昭和7)年の13回帝展に出品した《漣》は銀地の画面に太い郡上の線をいくつも這わせてただけで、水面を渡る微風の足跡を見事に描いた作品であった。銀箔を張った本紙(絹本)を光る水面の地色に見立て、これに色の線を描きこむだけで、ほとんど踏み込むことのなかった、水と風の表現に至った。もっとも単純な手法で最も複雑な自然の形をとらえることに成功した、もっとも抽象的な手法でもっとも写実的な表現を獲得したのである。

 《漣》の性向には彼に新しいものの見方、視点をもたらした。対象をよく見ること、写生をよくすることは無駄な線をなくすこと、余計な筆数を減らすことである。あいまいな線、あいまいな形を許さないことである。《漣》を屈折点に線や形がますます歯切れのいいもの、単純明快なものへと傾いていく。そして何より彼に鮮度の高い感動と発見をもたらしたものは‟色”であった。

 1930(昭和5)年に創設された「六潮会」は1932年に第1回展を開いて以来、毎年1回ずつ開かれ、1940(昭和15)年の10周年記念展(9回展)まで継続された。平八郎は1937年の6回展を病気で休んだほかは毎回作品をよせた。「六潮会」への出品が平八郎の表現意欲をかきたて、心を存分に解放させたことは言うまでもない。そのことが、官展をはじめとする各種展覧会の審査員に任じられ、また画廊や百貨店の美術部が主催する展覧会にも招じられて数多く出品するところとなる。しかし、1934(昭和9)年8月、長女陽子(5歳5か月)を亡くしたのをはじめ、1936年には母アン(安)を失った。画家としての実績と名声が上がる一方で、人としての人生の不幸に直面しなければならなかった。そして戦時中の精神的、身体的なもろもろの制約に続いて、やっと終戦を迎えた翌1946(昭和21)年、こんどは父馬太郎の死にあった。平八郎は落款印に「馬安」あるいは「馬平安」というのをよく使ったが、これは父馬太郎の「馬」と母アンの「安」の字を、そしてときにそのあいだに平八郎の「平」の字をはさんで画号としたもので、父母への敬愛の情の深さを表すものであった。

▣平八郎と釣り
 平八郎が釣りを覚えたのは1931(昭和6)年ころ(当時39歳)で、絵専の教諭・中井宗太郎に勧められ、夫妻と一緒に琵琶湖へハエ釣りに行ったのが最初であった。すっかり病みつきになった平八郎は、1人、泊りがけで出かけ、琵琶湖周辺の川という川はくまなく釣り歩いた。某日、姉川じりの桟橋で一息ついていると、巡査がやってきて尋問を始めた。なんでも近所に変な押し売りが出没するとかで、平八郎の、洗面器を入れた雑のうが不審に思われたからである。写生帳を開示してやっと放免してもらったという神話がある。一時は1年の3分の1は釣りで過ごしたこともあるほどで、山陰、福岡、宮崎、伊勢などテイ夫人が亡くなるまで(1963年)日本のほとんどを釣り歩いたと言っている。釣りをしながら魚の生態や習慣を観察し、釣れない時は写生帖を出して描くという楽しい釣り道楽であった。

戦後の活躍

 戦後の復興は官・民を問わず気忙しいものであった。新思想のもとで新しい運動体や展覧会が創設される一方で、戦時中中断していたものが復活した。その1つは文部省の所管による展覧会(日展)と芸術家の顕彰制度(芸術院会員)の復活であった。平八郎は戦後いち早く解説された文部省主催による「日展」の審査員を委嘱され、翌1947(昭和22)年には「帝国芸術院会員」(現・日本芸術院会員)に選ばれた。このt日展を中心とする作家活動と芸術会員という画家としての地位が、戦後の福田平八郎の活躍の基盤となる。すでに独自の画境に到達していた平八郎の芸術は戦後の解放された空気のなかでいっそう自由な視点を得て、新感覚、新機軸の絵を次々生み出した。たとえば、《新雪》、《雲》、《雨》、《水》等々である。そして1961(昭和36)年、ついに国の最高の栄誉、文化勲章を受章した。彼の広くふかい画境、洗練されて冴え渡った感覚は、他の画家の容易に至りえない高みにあるものと公認された。平八郎は、1974(昭和49)年3月22日、82歳の長寿を全うするまで、自然を友とし、季節の中で光や色と戯れながら、自在の境地を思う存分楽しんだのである。

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