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くさま やよい

草間彌生

略歴

1929年3月22日〜

1957年 ニューヨークへ渡る。
1973年 体調を崩し日本へ帰国。
1996年 際美術評論家連盟から2年連続で
    ベストギャラリー賞を受賞する。
2000年 第50回芸術選奨文部大臣賞、
    外務大臣表彰を受ける。
2001年 朝日賞を受賞する。
2002年 紺綬褒章を授章する。
2003年 リヨン・ビエンナーレに参加。
    同年、フランス芸術文化勲章オフィシエ、
    長野県知事表彰を受ける。
2004年 大規模個展が日本を巡回。
2005年 「草間彌生全版画集(昭和49年~平成16年)」
            が阿部出版から刊行される。
2006年 旭日小綬章。ライフタイムアチーブメント賞。
            高松宮殿下記念世界文化賞。
2009年 10月、文化功労者に選出される。
2014年 安吾賞を受賞する。
2016年 文化勲章を受章する。
2017年 「草間彌生美術館」が開館。
2017年 名誉都民

幼少期

1929年、長野県松本市の種苗業を営む旧家に生まれる。近所には広大な花畑が広がっている環境の中で育ちます。その頃から絵を描く事が大好きな子供でした。ただ、他の子達と少しだけ違う事がありました。それは、視界に水玉や網目がかかって見え、草木や昆虫の言葉が聞く事が出来る子供でした。1日中、草木の声が聞こえる事は誰にも理解されずに精神的にも辛い時期を過ごしていました。ある時、幻覚の恐怖から逃れる為に紙に描く事をしていました。それが、なんとも言えぬ感じがして心が落ち着いたそうです。

京都時代へ

小学校を卒業して松本高等女学校へ進んだ時に、美術の先生で日本画家の日比野霞径(ひびのかけい)に出会います。日比野の勧めもあり、京都市立美術工芸学校の最終課程に編入学し日本画を学びました。しかし、草間にはしっくりとこなかったのか1年余りで松本に戻る。それからの制作は今に続いているように感じます。素材や技法なども含め、独自の表現方法へと変わっていきました。1952年3月に初個展。それからわずか半年後には2回目の個展を開いています。

アメリカへ

個展開催以降、草間は海外に出て行く事を固く心に決めます。当初はフランスのパリを目指していましたがタイミングが合わず断念。
その後、目的地はニューヨークになります。しかし、当時は戦争が終わってまだ10年を越えた程度です。今では想像出来ない程に海外に行く事が難しい時代でした。しかし、彼女の強い願いは実を結び、1957年11月18日、単身アメリカに旅立ちました。

シアトルからニューヨークへ

当初、シアトルになるゾーイ・ドゥーザンヌ画廊で個展をする名目でビザを取得しましたが、翌年には、ニューヨークへ移り住む事になります。ミッドタウンの画廊街を歩き回り、作品を委託するカタチでなんとか食べていく日を過ごして行きました。その後、1963年5月に作家としての実績を認められ、念願の永住権を獲得します。

ニューヨーク時代って?

草間のニューヨーク時代というと1958年から1973年を指します。その時代は、ちょうど世界のアートシーンの転換期と言える時代でした。それまではパリが中心でしたが、パリからニューヨークへ中心が移って行く時代とも言えます。絵画だけにとどまらず、彫刻に関してもニューヨークがメインになって行く時代でした。それまでの美術、芸術のあり方が解体され、多様な表現が生まれ、育っていきました。そのような中で草間は新しい自分の芸術を制作して行く事となります。1964年以降からは、鏡や電飾を使った空間表現の作品を発表し、ハプニングと称される過激なパフォーマンスで注目されました。

ニューヨーク時代、特に注目している点

草間はアンディ・ウォーホルらとグループ展示なども行った点やフランク・ステラやドナルド・ジャッドと個人的に付き合いがあるアジア人で、女性作家で成功している作家は草間しかいないのではないかと思います。ステラもジャッドも彼女の作品を心から評価していた証拠に個人的にも作品を収集していました。

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