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きぬたに こうじ

絹谷幸二

略歴

1943年1月24日 -

1943年 奈良市に生まれる。

1962年 東京芸術大学油画科入学。

1968年 独立美術協会会員に推挙される。

1971年 イタリアに留学し、アフレスコ古典画を研究。

1977年 文化庁在外研修員に選出され、イタリア、メキシコ留学。

1993年 東京芸術大学教授に就任。

1997年 長野冬季オリンビック公式ポスターを制作。

1999年 東京美術倶楽部東京アートフェアにて個展開催。

2009年 絹谷幸二賞が毎日新聞主催で創設される。

2010年 東京芸術大学名誉教授に就任。大阪芸術大学教授に就任。

絹谷 幸二(きぬたに こうじ)洋画家。明るく躍動的な色彩で描かれた人物などが特徴とされる。独特な富士山の作品に特に人気がある。

幼少期

 1943(昭和18)年、1月24日、奈良市元林院町に、絹谷政幸・ヒデの長男として生まれる。上に姉が一人いる。家は猿沢池畔に古くからある料亭で、白樺派の作家、東大寺の上司海雲ら文人塁客、アンドレ・マルローら著名人が訪れ、祖父が集めた多くの古美術品に囲まれて育った。

 奈良学芸大学附属小学校に入学。絹谷は子供のころからとても優等生で、いつもクラスでトップだったが、猛烈な野球小僧、腕白坊主であった。物心ついたときから絵筆をとり、小学校一年のころから担任の西岡義一先生に絵の手ほどきを受けた。また、少年時代からカメラを手にしていた。同小学校を卒業し、同付属中学校に入学。中学、高校を通じて美術部と野球部に籍をおく。絵画、文学にのめりこんた。1956(昭和31)年11月、奈良県美術展に油彩《ピアノのある静物》が入選。その他、市の展覧会など入選を重ねる。また、1959(昭和34)年に同中学校を卒業し、県立奈良高等学校に入学。

 県立奈良高等学校を卒業後、東京芸術大学美術学部油画科に入学。成績優秀で東大に進むことを期待されていたので少し反対されたが、自分の決めた絵の道を選んだ。最終的に東京芸術大を目指したのは、関東の粗削りな文化に魅力を感じ、奈良の古い文化から出たかったからだ。大学時代は貧乏だったが、これほど楽しい時代はなかった。同大学の卒業制作の《蒼の間隙》で大橋賞を受賞。そのまま同大学の大学院壁画科に進学し、島村三七雄教室でアフレスコ古典画の研究を行う。壁画科を選んだのは、大学三年のときに法隆寺の壁画を見て深い感銘を受けたためであると本人は語っている。

 1968(昭和43)年、大学院課程を修了し、芸大副手になる。同年10月、第36回独立展に出品し、独立美術協会会員になる。三回の出品で、最短、最年少での会員推挙であった。このころ、上野の森美術館で大井宏美と知り合いになる。

絹谷幸二としての確立

 絹谷幸二個人としての転機を与えたのは、1970(昭和45)年7月、銀座・資生堂ギャラリーにて行った自身初の個展である。この頃から、国内だけではなく、世界的な評価を受けるようになる。8月、ヴェネツィア・アカデミアのブルーノ・サエッティ教授が芸大に集中講義に来た際、留学の招待を受ける。芸大副手を辞任する。

 1971(昭和46)年3月、大井宏美と結婚し、結婚式の翌日、片道の切符だけを持って、イタリアのヴェネツィア・アカデミアに私費留学。ブルーノ・サエッティ教授のもとで、古典・現代のアフレスコ画法の研究に取り組む。イタリアでは古典に囲まれて勉強したが、その古さだけではなく、その本質と新しいイタリアのセンスを勉強出来たと語っている。また、ヨーロッパ各地を旅行し、古典では、ピエロ・デ・ラ・フランチェスカやジョット―の壁画に特に感銘を受け、模写もたくさんし、学んだ。12月、ベビラアックア・ラ・マーサ財団主催展に連作、《りんご飛行》を出品、ラ・マーサ賞を受賞。この作品は、ヴェネツィア近代美術館買い上げとなり、市立美術館での個展開催権を得る。

 その後、1972(昭和47)年ミラノ・スコットランドハウスにて個展開催。6月、ユーゴスラヴィアのINCONTRO A MOTOVUN展に出品。同展には1973年、1978年にも出品している。1973年ヴェネツィア・カバリーノ画廊にて個展開催。こうして、イタリアへの留学は9月のヴェネツィア市立美術館にて個展を最後に、日本に帰国したのであった。

滞欧を経て、日本

 イタリアからの帰国後、長男・幸太が生まれる。奈良・高松塚古墳第三次調査に保存対策委員として参加。当時、壁画の研究をしていたのは日本人では絹谷だけであったため、文化庁から壁画の調査を依頼された。この委員にならなかったら、もう少しイタリアにいたかもしれない。1973年11月、銀座・彩壷堂にて個展開催、模写と滞欧作を出品。ちょうど絵画のブームが終わった直後であり、日本でやっていけるのか、不安もあった。しかし、ブームの存在自体も知らず、それに浮かれることなく絵と真摯に立ち向かった結果は、比較的早く認められることなり、幸いであった。

 1974(昭和49)年三月、《アンセルモ氏の肖像》で第17回安井賞を受賞、これは最年少での受賞であった。「僕は独立の常任委員で、会員の絵を推薦する立場だったし、僕の絵画安井賞無機とは思わなかったので、まさか受賞できるとは思わなかった。」と語る。受賞を知った時は、妻と抱き合って、飛び上がって喜んだ、と言っている。安井賞をもらわなければ、もう一度イタリアへ行っていたかもしれない。

 1980(昭和55)年、日本大学芸術学部客員助教授となる。「よく作家と教育者の二足のわらじと言われるが、僕はそう思っていない。サルトルの影響もあるかも知れないが、芸術家はアンガージェマン(社会参加)しなければならないと思っている。僕は絵描きだから、絵を方法に、教育によってアンガージェマンしていると考えている」と本人は語っている。その後、5月にアフレスコ技法を執筆している。同年11月、アジア現代美術展に出品。12月には長女が生まれる。

さらなる高みへ

 その後、日本大学客員教授を辞任し、自身の個展などを数多く手がけ、精力的に活動を続けている。イタリアで学んだ古典技法に日本画の画材を取り込んだ独自のフレスコ画で、洋画界に新風を吹きこみ、鮮烈な色彩とダイナミックなタッチで女性、富士山、仏像などさまざまなテーマを追求してきた。そんな絹谷の人生で最も深く心に刻まれ、いつかは描きたいと思い続けてきたのが「無著・世親菩薩像」だという。「無著・世親」は、法相宗の始祖として崇敬されるインドの学僧の兄弟。興福寺が所蔵する立像は、鎌倉時代、運慶円熟期の最高傑作とされる。生身の人間であり、菩薩でもある「無著・世親立像」を、洋画家である絹谷が、カンバスにどう表現するのか、それは日本人の鎮魂と再生への願いであり、祈りの表現であろう。

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