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こやま けいぞう

小山敬三

略歴

1897年8月11日 - 1987年2月7日(享年:89歳)

1897年 長野県小諸に生まれる。

1916年 慶応義塾大学を中退。川端画学校 藤島武二に師事

1920年 島崎藤村のすすめで渡仏 シヤルル・ゲランに師事し油絵のを学ぶ。

1922年 サロン・ドートンヌで《並木道の冬》が初入選。マリー・ルイズ・ド・モントルイユと結婚

1929年 帰国後、茅ヶ崎にアトリエ

1936年 石井伯亭、安井曾太郎、木下孝則、硲伊之助などと一水会を結成

1937年 再び渡仏

1959年 白鷺城の連作で日本芸術院賞受賞

1970年 文化功労者

1975年 美術館を建設し、作品と共に小諸市に寄贈 小諸市立小山敬三美術館開館 文化勲章を受賞

1985年 小山敬三美術振興財団設立、小山敬三記念賞による画家の顕彰と、油彩画修復技術家の留学奨励

1987年 神奈川県茅ヶ崎市で没。

小山 敬三(こやま けいぞう)長野県出身の洋画家。小山が描く浅間山が特に人気の構図であった。父と祖父は、小諸城下・荒町の豪商であった。昭和50年文化勲章を受章。

津七は何をもっとも尊ぶか重それは人により時代によって見方を異にするものの、この現代に入ってからことに洋画がすすめたのは、個人の墓やその量を、ことごとにあらわすことだった。そしてそれは、各自に各様の魅力をうみ、空前の賑わしさをもたらしたが、しかしその半面に何時とはなしに失ったのは、制作の気韻や格調颯てあった。

 作品の格調は、その作家が常に心を正しくして、末節の魅力を退けて、身をひきしめて制作をするところから、自然に生まれるものである。そして格調を言うときに、画壇に多い大家の間でも、まず第1にあげられるのは小山敬三氏の作品ではないだろうか。毎年の一水展に、その作品は、田崎広助氏と相並んぞ画壇を圧すばかりに光っている。

 その現代は、個人の資質を強調するだけに、その殆どの作品は、自分の体質や感覚をどのように鮮明に展開し、他人と違った面白さをどのように生もうかと競っている。そしてその間には行き過ぎや、節度を忘れた誇示までが、効果でもあるように受け取られて、すでに名のある大家の問でも、その人の最も押しつけがましい強調が、かえって魅力を高めるという結果まで往々に見られるのであった。  そういう時にこの作家に打たれるのは、いかに技術があろうとも、それを誇示することがないことである。この作家は、他人がどれだけ奔放をふりかざして、これ見よがしに描こうとも、ひとり身を正しくして端然と、その確信するところへただ真っ直ぐに進んでいる。それは魅力の行き過ぎは、絵の品性を卑しくするからであり、自分に溺れて、自分を見せることばかりに満足する時は、心の傲りがあらわれて、その作品の格調にひび割れが生じるからであった。

 作家の作品は、大きく分けると、滞欧時代の制作と、姫路の城を主題にする連作と、そして今も美しく続いている浅間山の制作に分かれている。

 この作家は技を誇示しないが、実は大変な技術家であった。そしてそれを示すのが滞欧時代の作品である。当時のパリは、エコール・ド・パリの巨匠たちが居並んで、フランスの絵画が絢爛に傲る時だった。当時の秋のサロンの盛大は、もう現在のフランス画壇では夢のまた夢になっている。ところでもう当時から、邦人画家の作品はおびただしく会場に見られたが、荒くれた西欧の作品にはさまれた、邦人に共通したものは、絵の体力がことに弱いということであった。しかし、それを撥ねのけて、会場に格段に冴えたのはその小山氏の作品であった。

 作家の作品は、洋画の強い体質を完全にふまえたものだった。そして画面は構築をするように、厳正に、スペインの風景をあらわした。フランスの風景は優しいが、スペインは、現代と中世とが同居する姿を残している。その城砦は簡素でそして雄偉である。トレドの橋は往昔のままに立っている。アルカンタラの橋梁は砦をかねてかかっている。そして作家はつぎつぎの雄作を生みだした。

 それらの作品で気付くのは、その多くが建築のように組まれていることである。この作品は、精神の乱れを許さない。また現代の制作の一半が、どれだけ病的な面白さや廃頽の魅力を生もうとも、それは作家の取らないところであった。作家は画面の混乱をみとめない。そのとき豪放に立つスペインの中世以来の建物は、その簡素とカから好個の題材となったわけであった。

 形の繁煩を好まないように、作家は情熱にまかせて色彩をかきまわすあり方をやはり強く拒んでいる。それよりも端然と見つめて、端然とと描く――そして自然のうちなる立派さに触れてゆく。そしてそれから生まれる格調を大切にして、他の魅力にはおもむかない作家のそういうあり方は、構成と色彩に変化をみせるとはいえ、次には日本に帰って白鷺城に、その名作を生むのであった。

 西欧の風景は、家屋は石造だけに立体が強く、山も丘も形が明確で、洋画を描かせるように作られているかと思うばかりである。ところが帰国をして、とたんに洋画が直面するものは、日本の自然が描きづらいということである。それについてはこの作家も苦心をされたと思われるが、しかしその前に白鷺城は清浄に立っていた。

 城は、歴史が残した最も見事なものの一つである戦いがどう動くか、どこが攻められるか、それを前提として建つ打けに、それは緊迫したカであり、機能をつくした整然をみせている。しかし洋画でどう描くかということになると、その難しさは変わらない。

 作家はそれを、困難がなかったように描いている。それに作家の作風として、どこに苦心しているかという痕を、その作品にあらわさない。しかし作家は、その城廓の整然と泰然を、城の本領とうけとって巨きく深く描いている。

 晴天に、白壁がつよく陽に映えている。影は強さをおびている。屋根は光の下に瓦の立体を、ことごとく歴然とのせている。屈して進む塀、地をふまえる櫓、城は往昔の武士の戒律までのせている。そして作品はまったく構築を正しくして、自由に組みながらも巨きくそして整然と、白龍城の見事さをあらわしむ。そしてその時、以前にもまして気付くのは、量と光の対照が、ことに明確に、ものの構成と性格を際立忙していることてあった。

 茅ヶ崎のほかに、軽井沢に住居をもうけられてから、浅間山は、作家が日常に触れあう自然であった。そして作家といえば浅問山を考え、浅間といえば作家を思うほど、まるで一体になるばかりの浅間山の制作が生まれている。

 作家は中天に立つ山容にふれ、噴煙をは華生きた力の姿をみて作家が求め続けられた。自然の一個の理想像をそこに見られたのかもしれなかった。

 その構図は、しだいに限られた形にしぼられている。作家は、これが浅間の面目だと、確信した構図をとられたわけである。そして決定してからは、構図は殆ど動かない。

 しかし謹厳な城の制作にくらべると、浅間の作品は動的である。作家は動きを締めつけるものを一切外して、そこに空気の動くような流動を取り入れている。しかも洋画でありながら、大胆な様式を取り入れている。夕陽に、山頂を紅朱の 一塊にして立つ浅間は、省略すべきは省略し、強調する所は強くかかげて、それはかつての障壁画を見るように、茎にも自在に描かれている。そして白雲をへだてて黒い森、ついで前景にはこときらに幹をつよく描いて、これも一つの様式化による樹木の展開が描かれている。

 そのとき作家があらわすのは、自然の外観の写実ではない。それは単なる写実ではあらわしえない深奥と、内より動く生動を、その様式化によって表現したわけずあった。それに東洋の人として、その精神にひびきあう山の壮麗を写したのであった。それは浅間を描きながら、同時に、自然に捧げる豊麗な頭歌とまでなっている。

 とはいえ作家には他にも雄作があって、その《滝野間離鬼離》は、さして広大な情景とは見えないにもかかわらず、すばらしい巨きさに充ちわたった。そして《佐久間ダム》の巨大も忘れることができない。

そして多くの作品に感じられるのは、制作はどのように謹みをおびて描くべきか、 またどれだけ心を高くもつべきか、そして自由の間にも端然たる整理があってこそ、調和が磨かれて、品格が生まれるということであった。

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